「もく星号」事件の考察
「もく星号」事件の考察。2007/7/24
ブックマークへジャンプ◆事件の概要 ◆墜落現場 ◆私の推論 ◆米軍の演習
◆何が起きたのか ◆GHQの対応 ◆松本清張氏の資料 ◆現場の状況 ◆機長の対応 ◆現場の状況 ◆KE007応答せよ
松本清張氏の遺作となった「1952年日航機撃墜事件」は戦後史の闇に迫った「風の息」を新たな視点で見直そうとしたが、力及ばず志途次にして逝去され未完の侭で終わっている。私は1983年9月1日の大韓機事件との奇妙な共通点に注目し「KE007応答せよ!」に纏めたが出版社に受け入れられず、平成5年末、不本意乍らも自費出版で残すに至った。二つの事件は共に第一報が全員無事とされ後に全員死亡と暗転した。同時に第一報の出所が不明の侭である。
松本清張氏には1985年頃「KE007応答せよ!」の資料を御研究願いたく御送付させて頂いた経緯が有り「1952年日航機撃墜事件」に共通点の一部でも取り上げて頂けるかと期待していたのであるが叶わぬ夢に終わってしまった。今回此処に取り上げる理由は沖縄で起きた民間機と米軍機のニアミスの状況が過去の事件と余りにもリアルに共通するからである。
戦後の民間航空は米軍占領下の昭和26年10月25日ノースウエスト航空より機体とパイロット及び運行管理技術の提供を受け日本航空の名称で再開された。この記念すべき第一便となったのが「もく星号」であった。昭和27年4月サンフランシスコ平和条約の発効直前、実質的には占領状態の米軍管制下で1952年4月9日午前8時過ぎ羽田発大阪経由福岡行きの日本航空マーチン202「もく星号」は伊豆大島の三原山に墜落した。羽田出発前のクリアランス(離陸許可)「館山通過後10分間南へ2000フイート」とあり「羽田出発後」に訂正したとなっている。飛行ルートA3.G8.G10は羽田から館山間はほぼ真南、館山から西寄りに方向を変え大島から真西へ飛ぶコースである。仮に館山通過後10分間南へ飛べば三宅� �� ��北側上空に達する。当時の天候、飛行支援施設(ラジオビーコン)機材の性能を考えた場合かなり無理な要求である。従って「南へ」の部分は修正されたであろうが「2000フイート」は維持されていた可能性が高い。
1952年の4月は米国が軍事的にも政治的にも極めて困難な時期に当たり日本占領初期の理想主義は色褪せ、なりふり構わぬ防共ラインの構築の為に強圧的政策に転じていた。李承晩の独裁制を危険視しながらも反共政策ゆえに容認し対共産主義前線を形成すべく対日講和条約による日本の占領解除、再軍備と朝鮮半島への後方支援工場化を急ピッチに進めつつあった。朝鮮戦争の推移も予断を許さない局面にあり米国の軍事優先政策が頂点に達した時期であった。
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仁川上陸作戦は朝鮮半島の南端まで追い詰められた米国の支援する南側が形勢を立て直す為の起死回生の作戦であり、在日米軍の総力を挙げた決戦であった。その為には日本の工業力を利用しなければならず戦後日本の民主化を進める為に財閥解体で封印して来た大日本帝国を象徴する軍需産業を再生したのである。 |
1950年9月15日の仁川上陸作戦に よって起死回生の戦況建て直しに成功したが38度線に近いソウルの防衛には戦術的に極めて困難な部分があり常に大規模な反攻を可能とする準備が必要である。従って在日米軍は常時ソウル奪還作戦の訓練に励んでいた。事件の現場となった相模湾周辺の地形は江華湾と相似形と言える程に近い。北緯38度東経126度の延安付近と北緯35度東経139度の熱海を重ね合わせればソウルと入間はほぼ同じ位置となる。朝鮮半島の作戦地図を90度振り替えれば相模湾を江華湾に見立てた現地訓練に近い成果が得られたであろう。更に愛知県小牧基地周辺をピョンヤン付近に見立てた北軍との戦闘シュミレーションを設定し北緯38度線を挟んだ戦域全体の訓練を伊豆半島を縦走する東経139度線付近で実施していた筈で� �� ��る。羽田出発前のクリアランス「館山通過後10分間南へ2000フイート」は明らかに米軍演習区域を避けよとの指示であり恐らく空海連動の戦闘訓練が進行中であった。「もく星号」は悪天候の中を差木地のラジオビーコンを頼りに米軍コントローラーの指示通り2000フイートで飛行していた。
通常の高度は上り便が5000又は7000下り便が6000又は8000フイートとなっていた。三原山が2500フイート(750m)であり危険が予測される筈であるが何故に2000フイートで飛行したのか?そこにこの事件の原因があり最大の謎でもある。
以下は私の推論である。ドキュメント「もく星号事件」
1952年4月9日午前7時34分「もく星号」は羽田空港を離陸した。直前のクリアランスに関して機長と羽田の管制官で押し問答がありジョンソン(入間)からの指示に不明な点があった。機長「これよりジョンソンへ無線を切り替える」羽田「了解」機長「高度2000でA3を飛行、館山よりG8」入間「G8付近は演習中につき館山より10分間南へ飛べないか?」機長「ラジオビーコンが頼りだ。南へは飛べない」入間「了解。但し高度は2000を維持せよ」機長「通常6000だ。低過ぎないか?」入間「上に複数の空軍が居る。差木地の真上を飛べば安全だ」機長「了解。その指示に従う」当初コントローラーが想定したコースは三宅島北方より大阪方面へ直行する方位280度の破線のルートであろう。
しかし機長は悪天候の中でコンパスだけの飛行は危険であると拒否した。事件直後の最初の情報が名古屋方面からとされる「舞阪沖、全員無事」とは入間と小牧(第5空軍)の間で事前の了解が存在したのである。
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機長「7時57分館山通過。G8へ8時7分差木地予定」入間「了解」機長「雲中で盲目。至近距離に空軍が居て危険だ」入間「彼等は友軍だ心配無い」機長「ガッデム、機銃掃射しやがったぞ」入間「大丈夫か」機長「右翼にショックがあったが大丈夫の様だ」入間「それは良かった。空軍に注意するよ」機長「まもなく差木地だが少し右に寄っている」入間「三原山に注意しろよ」機長「解っているよ。進路を修正しよう」機長「右に傾いているが何とかするよ」入間「大丈夫か」機長「左旋回してるが上手く回らない」入間「大丈夫か」機長「目の前に山がある。オー神よ」入間「どうした応答せよ」
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米軍は緊急事態を知り直ちに付近の全軍に報告を求めた。小牧に所属するパイロットから機銃掃射の報告があり損傷軽微と知る。同時にジョンソン基地のリード大尉の関係者も緊急事態を知り収給策に急ぐ。
GHQ(占領軍司令部)は事故原因の証拠を隠す為にリード大尉の関係者はダイヤを回収する為に(占領中に日銀から大量のダイヤが紛失したが米軍内部に密売の闇流通組織が有りリード大尉はその重要人物であった)松本清張氏「日本の黒い霧」従って事故当時もかなりの量のダイヤを持ち歩いていたが「もく星号」には唯一の女性乗客で米軍関係者とされた小原院陽子も共に搭乗していた。二人の関係は明らかではないが宝石デザイナーを名乗りダイヤ密売組織の一員であった。
GHQは天候が回復し米軍ヘリが現場に到着して作業を終える迄、日本側に現場を知られない為に偽情報を流す「舞阪沖に不時着。救助に向かっている」「機体を発見」「全員無事」これらの情報は夜に入ると共に否定され日本側の捜索を困難とする。4月10日夜明けと共に米軍ヘリが現場へ急行する。1機は国連軍の旗を立てた司令部機で事故原因となった機銃掃射による損傷部品の回収へ。あと1機はリード大尉の関係者でダイヤの回収へ。日本側の動きを視るためB29を現場付近に待機させる。午前8時半頃、日本側の捜索機が現場を確認した時点で米軍ヘリは地上に降りて現場で作業を始め必要な処理を行うと共に日本側カメラマンの現場立ち入りを規制する。現場からは「もく星号」の右補助翼タブが発見されず取り付� �� ��金具の状態から空中での脱落は否定された。従ってこの部分に機銃掃射の損傷が有り米軍が回収したのである。
事故調査委員会が設置され米軍に協力を求めるが交信記録は提供されず機長の操縦ミスとして処理しようとする。ノースウエスト社は米軍筋から高度2000フイートの情報を得るが公表を規制される。この様にして事件は解明されずに終わっている。
以下は松本清張氏の著書に基づく資料の一部である。
1.館山と大島を結ぶ直線上に漁船にしては多すぎる油の流れが3カ所有る。発見時間は4月10日の午前7時頃であり、前日9日午後3時半頃救助に向かったとされる米海軍の掃海艇「ヘロン」「ファイヤークレスト」共に270t及び輸送船「タイテニヤ」1400tの3隻が舞阪沖ではなく、この海域に居た事を示している。
2.空中分解ではなく偶発的な衝突、尾翼から着地し一度バウンドして墜落している。事故調査報告書によれば接地時の飛行速度、エンジン回転数、機首方位は全て巡航状態を示している。更に乗客がシートベルトを着用していない事から不時着、緊急着陸ではない。
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3.事故発生が4月9日午前8時過ぎ。現場発見が10日午前8時半頃。米軍も同時に発見したとすれば同時刻にヘリが降下するには無理がある。ヘリの速度及び航続距離を考えれば米軍は早い時点で現場を確認し天候と夜明けの関係でヘリを急行させたのである。
4.写真紙「サン」の現場写真には二人の米国人が写っている一人は制服一人は私服である。遠景のヘリは二機、右側のヘリには白地の下端に赤い筋の旗を立てている。この写真はカメラマンが米軍の規制に隠れて撮った。
5.高度2000フイート(東京モニター)の情報は明治屋からとされる。第一生命ビルのGHQ司令部に近いノースウエスト支社の明治生命ビルとすれば米軍の高いレベルから出たと考えられる。村上運輸大臣がマスコミ以外から得た情報は確度が高い筈であるが後に消えてしまうのは米軍の規制による。
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以上のデータを検証し再び当時の状況を考えて見る。米軍演習のシュミレーションは早朝、北側による攻勢が始まり北側が38度線を越えた制空権を維持している局面に国連軍(米軍)が南から反撃に転じた状況であろう。
従って南側の米軍機と船舶が館山付近から伊豆半島に向かって進行し北軍側を駿河湾方向へ押し戻そうとし北軍側が抵抗する形であろう。
北軍側の米軍機は「もく星号」を仮想敵機に見立てて上空から攻撃態勢で接近する。
固より演習であるから至近距離で反転するだけである。
上が朝鮮半島の現地で下が事件の現場。
然し人間は時として誤りを犯す。就中、軍人は常に生死をかけた勝敗の世界で訓練し実戦に臨む。従って一瞬の判断が死と直面する状況を強いられている。演習中の事� ��を完全に排除する事は不可能であり事故は日常茶飯事と言っても過言ではない。特に戦闘機は本来、安定性よりも機動性を優先する物であり常に孤独な死と直面して瞬時の判断を求められている。
「もく星号」に接近した米軍機は当然ながら機関銃の照準を合わせ自分の技量を確認する。銃の発射ボタンに手を掛け攻撃の成功を確信する。演習の目的は達成されたが事故が発生する。あるいは彼の気まぐれが的を外した射撃を行ったかも知れない。
その時「もく星号」の右補助翼タブが損傷を受けるが飛行に急激な影響を与える程ではなかった。機長は軽い衝撃を感じ飛行をチェックするが大きな異常は感じられず緊急事態とは考えなかった。米軍コントローラーへも其の旨報告し飛行を続けた。しかしながら事態は機長の判断を越えて進行していた。「もく星号」は緩やかにしかし確実に右方向へと傾き進路を差木地から三原山へと変えつつあった。 ベテラン機長は異常に気付き米軍コントローラーへ報告すると共に進路を修正しようと試みた。しかし「もく星号」は右補助翼タブの損傷による傾きを回復できず左旋回を困難としていた。それでも機長は自信を持っていた。全力を尽くして進路を修正し三原山への衝突を回避しようと最後まで努力を怠らなかった。彼は乗客が恐怖を感じパニックとなる事を避けたかった。ベテラン機長のプライドが事態は解決可能であり事後の評価を低下させるトラブルの発生を知られまいとし、その原因が自国の軍による事も知られたく無かった。そして悲劇は起こった。もしも機長が事態をより深刻に受け止め乗客にシートベルト着用を指示していれば生存者が居た可能性は有る。或いはエンジン出力をアップして急上昇を試みたならば悲劇は防げ� �� ��かも知れないが厚い雲の中の盲目飛行であり多数の空軍機が至近距離を飛行中である事が機長の判断を誤らせたのであろう。三原山の斜面を眼前にした機長は本能的に機首を上げたがエンジンのパワーをアップする余裕は無かった。機首上げの結果、機体後部が地面に接し反動で水平に近い状態で斜面に激突し機体は斜面に帯状に散乱した。
写真紙「サン」のカメラマンが三原山の麓から歩いて現場に到着したのは正午近い時刻である。その間、二機のヘリで降下した米軍関係者だけが現場に居た事は毎日新聞社のセスナ機が低空飛行で目撃している。先に見た様に米軍が事故原因となった右補助翼タブ(長さ約60センチ幅30センチ)とダイヤを回収し証拠隠滅作業をした。とすれば現場に生存者が居ればどうしたであろうか。飛躍が過ぎるかも知れないが生存者が事故原因を知っていた場合、米軍の判断は如何なる物であったか。その後の米軍側の対応を考えれば強ち妄想とは言えまい。何れにせよ事件は解明されずに闇の中へと葬り去られた。
「もく星号事件」の調査は米軍占領下ではなく日本の主権の基で行われたが米軍は占領中と同じ権力を行使して事件の解明を拒み通して独立日本の第一歩に汚点を残し、その後の日米関係を暗示するのである。一連の黒い霧事件を主権国家でありながら追求せず従来の図式を容認した事が、その後の彼我の関係を占領下と変わらぬ従属国とみなされ、それに甘んじる事で経済発展を計って来た政財界の姿勢が国家の責任、国家の義務を自覚しないままに経済大国となり対米従属から脱しきれない日本国を形成したのである。その陰で米国は占領下と変わらぬ無理難題を国民の知らない所で、より巧妙に日本政府に押しつけて来たのであり、その様な日米関係の象徴が一連の核疑惑であり、沖縄における占領下と変わらぬ米軍基地の実態で� �� ��る。1983年9月1日のサハリンにおける大韓機事件は、この様な日米関係の下で「もく星号事件」と全く同じ構図で処理されたのである。それゆえにこそ私は松本清張氏による二つの事件の解明を期待したのであるが叶わぬ夢に終わった。
以上は1995年12月に纏めた物に一部加筆した。
フリーライター 大城 伊佐生
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