福島原発非常事態への備え : 被曝したユタ南部の末日聖徒
1951年よりネバダ実験場で核実験が開始されました。核実験は1951年に開始され、58年まで大気圏内で約100回、58年から92年9月まで1000回以上の地下核実験が実施されました。
政府は実験を行うにあたって、風が北ないしは北東に向かって吹いている時に限定しました。
それは南に吹いているとラスベガスに死の灰が降る可能性があり、西や北西の風になるとロサンゼルス、サンフランシスコという大都市に及ぶ恐れがあったからでした。
そして、風下となる北東地域にはユタ州の南部が含まれていました。ネバタ実験場からユタ州南部は約200キロです。
福島第一原発から東京までの距離は200キロから250キロで距離としては同じくらいです。セントジョージは二十歳の時、1ヶ月ホ� ��ムスティしたなつかしの地です。こんな悲しい事件があったことに驚愕しました。
アトミックエイジ(豊崎博光:築地書館)という書が詳しいので引用します。
「実験場の北および北東の地域--ネバダ州北部、ユタ州南部、アリゾナ州北西部--にももちろん人間は住んでいる。ウェスターン・ショショニー部族(ネバダ州)やパイユート部族系(ユタ、アリゾナ州)インディアンなどの先住民と白人である。しかし、「少数」ということで無視された。しかも、ユタ州南部を中心に住む白人の多くは愛国的なモルモン教徒だった。晴れてアメリカの市民権を得た信徒たちは、以来、愛国者となった。
「核実験は国家の戦力を強化し、より良い市民防衛である」「核実験は敵の攻撃に対する防衛力を強化する」(一九� ��五年一月、アメリカ原子力委員会が作成し、ユタ州南部の住民たちに配布した小冊子「ネバダ実験場周辺地域における原爆実験の影響」より)。このキャンペーンは愛国心を刺激した。人びとは選ばれた風下の人となった。」
ユタ州南部で特に被害を受けたのはセント・ジョージ、シーダー・シティなどで人口のほとんどが末日聖徒でした。ラスベガスのホテルでは「わがホテルからは、原爆実験のキノコ雲が見えます」という宣伝文句を売りにしていたこともありました。
また、政府は「核実験は安全である」と宣伝していたため、気にせずに普段の生活をしてた人やわざわざ見物に出かけた末日聖徒が被曝したことも報告されています。
ユタ州セントジョージに長年住んでいる、ミッシェル・トーマスさん(52歳)の談 話。
「どんなに憎んだり恐れたりした相手にでも、われわれの身に起きたのと同じことが起きたらいいとはとても思えないほど、ひどい体験なのだ」
セントジョージ出身でBYUを卒業し、理化学博士となったデニス・P・ネルソン兄弟が被曝体験をレポートがありましたので掲載します。
■デニス・P・ネルソンの経歴
デニス・ネルソンはアメリカ・ユタ州リッチフィールドで1943年8月8日に生まれる。1943年から1959年まで、ユタ州セント・ジョージで弟と3人の姉妹とともに育つ。1959年、一家はユタ州北部へ移り住む。彼は当地のブリガム・ヤング大学で学び、化学で理学士号、生物物理化学で博士号を取得する。
1968年、ネルソン博士はアメリカ海軍に入り、22年にわた� �て海軍将校として勤務する。彼は、メリーランド州の海軍医学研究所、カリフォルニア州の海軍地方医療センター、海軍保健研究センターで働いた後、ワシントンDC近郊の軍医科大学の大学コンピューターセンター所長を 最後に海軍でのキャリアに終止符を打つ。この間、免疫系、中毒性および出血性ショック、ヘモグロビンの酸素輸送など様々な分野で生物医学的研究にたずさわる。
海軍を退役後、ネルソン博士は国立衛生研究所における廃棄物焼却の廃止に貢献したメリーランド州ベゼスダ環境問題啓発タスク・フォース議長として、地域活動に積極的に参加している。また、放射線が人体に及ぼす影響に関する実験についての大統領諮問委員会で2回証言した。彼はコンサルタント事務所を経営し、化学物質の毒性および環境汚染の分野での専門的助言を提供している。ネルソン博士の夫人はオーストリア人で、息子が1人、娘が3人いる。
ターポンスプリングがどこでloctedされますか?
世界の被ばく者の証言・資料 アメリカ合衆国
原水爆禁止1997年世界大会・国際会議
ユタ風下住民
デニス・ネルソン
今日、ここに私をご招待下さった方々に感謝します。私は、ここで皆さんにお話をする機会を与えられ、大変光栄に思います。
私は、科学者として専門的な話をすることもできますが、そうするつもりはありません。私が話したい問題は、それよりはるかに重要な事だからです。私の話は、愛と命と失ったものについての話です。家族と果たせなかった夢の話です。
私は、冷戦のさなか、アメリカ・ユタ州のセント・ジョージ市で育ちました。当時は、冷戦があまりに激しかったため、道徳や正しい行為など問題にもされませんでした。普通の人々の命は、たとえ少しくらい犠牲者を出そうと「国家の安全」や「自由」という作り話を守ることの重要性に比べたら、全く意味のないもの� �考えられていました。ネバダ核実験場の風下にあるユタ州南部とネバダ地方には「ほどんど人の住んでいない地方」というレッテルがはられ、そうした政府の声明によって、少なくとも2万人の人々が目にみえない、無視してもかまわない存在とされたのです。このなかには私の家族も含まれていました。
私の子ども時代に、後に「死の灰の町」として知られるようになるセント・ジョージ市の西120マイルの地点で約200発の核爆弾が実験されました。風は私たちの町の方向に向かって吹くことが多く、ある時、特別やっかいな爆弾が、計画していたよりも「激しく爆発」してしまった時には、原子力委員会のある役人は、もし実験の当日に雨が降っていれば、その影響でセント・ジョージ市の住民の半分が死んでいた� �ろうと後になってから言いました。たしかに、あの日、私たちは幸運に恵まれました。速やかに死ぬ代わりに、ゆっくりと死ぬことになったのですから。1950年代になると、あまり大騒ぎにはなりませんでしたが、一人また一人と、死者が出るようになり、それが今日もなお続いています。世界はユタ州の小さな町で何が起きているか知ることはありませんでした。この小さな町の人々は、放射線を浴びてからというもの、放射線実験に組み込まれ、知らないうちに、世界中で用いられることになる放射線の遮蔽基準を設定することに貢献させられていたのです。
広島と長崎で何が起きたのかは疑う余地もありません。たとえ医学者や物理学者がその影響を過小評価しようとしても、そこにいた人々は真実を知っています 。しかし、ユタをはじめ多くのアメリカの核被害地の人々は、今でもなお、この日本で起きたと同じ事が自分たちに起きたのだと信じようとしません。たしかに私たちは恐ろしい業火に焼かれたことはありません。しかし私たちの飼っている家畜の背中には、ベータ線によるやけどができています。「黒い雨」も降りませんでした。でも何年間も、放射性のほこりを含んだ乾燥した雲が私たちの空にただよっていました。破壊による膨大な被害もありませんでした。でも私たちは放射能で汚染された食物を食べ、汚染された牧草地で草を食べている乳牛のミルクを飲んでいたのです。
子どもの頃、私は死の灰がどこに流れていくのだろうと思ったものでした。夏の間、私が木陰で昼寝をした木にも、家の庭に撒いた水にも死の灰 は降りました。ネバダから吹いてきた風にも死の灰が含まれていました。しかし、私の両親は、心配しなくても安全だからと言われていました。私たちはそれを信じていました。死の灰がいたるところにあったのを知りませんでした。死の灰は、私の父親の肺や骨の中に、母親の脳の中に、私の弟の血液の中に、私の妹の腸の中に、そして私自身の皮膚にまで入り込んでいました。
クラマスフォールズの芸術
私の母は47歳で亡くなり、妹もわずか40歳で死にました。父はたばこを一度も吸ったことがないのに肺ガンで死に、弟と私は二人とも2回ガンを患いました。私や同世代の人々は、あまり長生きできないだろうと思っています。私の祖父母は元気で長生きしましたし、私は自分の子供たちも、また再び祖父母の世代と同じように、健康で長生きできるようになることを願っています。私は、あの美しく、聡明で、ウィットに富んだ妹が、ユダヤ人大虐殺の犠牲者のような変わり果てた姿になったことに気づいた時の恐ろしさを忘れることはできません。毒ガスを使ってであれ、アイソトープを使ってであれ、その犯罪性には変わりはありません。そして私の家� �はその犠牲者に選ばれたのです。
私の家族は、放射線被曝の影響について行われた統計や医学的調査の対象になったことはありません。私たちは利用され、見捨てられたのです。自分たちで医療費を負担し、一度も補償を受けることはありませんでした。社会保障による医療制度のない国では、人を病気にするのは簡単です。犠牲者自身が医療費を全額負担させられるのですから。
今世紀のはじめには、科学が、肉体だけでなく、精神も道徳も心も破壊するようになるとは誰も想像すらしませんでした。次の世紀になっても、科学は破壊から私たちを救うことはないでしょう。人類を破壊から救うことができるのは、皆さんや私のように、たとえささやかな方法によってでも、この現実を変えようとしている人々 なのです。紀元2000年が間近に迫った今、私たちは原子にまつわる真実を世界中の人々に知らせなければなりません。勇気ある男女の力を借りて、調査によって核兵器の引き起こした被害の実態を明らかにし、過去の犠牲者たちに発言の機会を与え、人間の行なった大虐殺が、極秘文書のなかに隠蔽されることを二度と再び許してはなりません。
日本にある原爆記念碑は、私たちの後に続く世代の人々が過去を忘れることのないよう、彼らに私たちを苦しめ、変えてしまった核の悲劇を常に思い出させるものとして、そこに立っています。セント・ジョージには、記念碑はひとつもありません。あるのは多くの幼い子供たちと若くして死んだ大人たちの埋葬されている墓地だけです。彼らは自分たちの声に耳をかたむけて� ��れと叫んでいます。ちょうど、皆さんのなかにもご存知の方々がおられると思いますが、クローディアの美しい娘のベサニー・ピーターソンのような幼い子供たちです。そして、5年前に亡くなってからこれまで、私を休ませてくれない私の妹のマーガレットのような大人たちです。
ここにいる私たちは皆同じひとつの絆で結ばれています。私たちが時間を過去に戻し、死ではなく生を語る事ができたなら、これまでに起こったあの出来事が、まったく起こらなかったならと、私は心から思います。しかし、過去を変えることはできません。それならば、私はせめて長生きして、この世界的な核のホロコーストによって命を失った全ての人に捧げられる記念碑が建てられるのを見てから死にたいと思っています。皆がそのま� �りに集まって、この話題を避けることなく話し合い、私たち全員がヒバクシャであると聞かされても目をそむけなくなるその時に立ち会いたいと思います。私たちは罪のない犠牲者であり、核兵器がなくなるその最後の運命の日まで、声をあげ訴え続けるのだということを決して忘れてはなりません。
私の愛する人々の命を奪ったあの原子兵器は、その標的や人命を破壊しただけでなく、その究極の力で、兵器を作り使用した人々の信用をも打ち砕いたのです。彼らの道徳や倫理の欠如は、図らずも、彼らが巧妙に秘密を隠し続けることで身を守ろうとしている臆病な殺人者に他ならないことを明らかにしました。
北京、中国に何時間
私は真実を愛しています。真実は人間を解放し、私が子供の時に奪われた選択の自由を取り戻させてくれるからです。私は私ができなかったこと、両親と妹と共に過ごす太陽の輝く日々、そして平穏な夜を夢に見たいと思っています。私は、長生きする人々、健康な子供たち、良い政府の夢を見たいと思っています。私は、私たち全員が、この夢を現実に変えられるように祈ります。
原水爆禁止2000年世界大会・国際会議
アメリカ
ユタ州ネバダ核実験場風下地域
デニス・ネルソン
私が子供のとき、広島のことを聞いたことはありませんでした。長崎のことも聞かされたことはありませんでした。4千万以上の生命を奪った世界大戦についてもあまり聞かされたことはありません。よく聞かされたのは、誇り高く愛国的なアメリカ市民に生まれてどれほど幸運かということでした。まだ幼い私には、戦争が実際にはどのようなものかなど知るよしもありませんでした。 戦争がどれほどひどい痛みや苦しみをもたらすかものかも知らず、戦争の英雄のほとんどが、実は 戦死した兵士だということにも気づきませんでした。私はアメリカの戦争を美化した多くのハリウ ッド映画に影響され、戦争に憧れを抱いていたのです。50年以上たった今日でさえ、本や映画のな かでは、アメリカ兵の勇敢な姿や犠牲や苦悩が理想化されて描かれています。成長するにつれ、私は、戦争が決して華やかなものではないことに気づきました。戦争は金持ちの支配層が彼ら自身の利益のために行うものであり、その犠牲となるのはほとんどが一般の人々だということも知りました。さらに私が気づいたのは、実際に戦闘が行われていなくとも、戦争を想定して常に戦闘準備をすることによって、国民が、道徳的、社会的、心理的に大きな被害をこうむり、さらには身体的な被害も受けるということです。
戦闘自体は何世紀も激しく行われてきました。しかし、第二次世界大戦終結後から続いているこの戦闘ほど、人々の目から隠され、見えにくく、破壊的で、野蛮なものはありません。この戦闘は、アメリカ西部に� ��がる風光明媚なトリニティという地域で始まり、いまだに終わっていません。そこにあるのは華麗な軍服でもトランペットでも剣の音でもありません。対決しているのは、強大な権力を握る人々と世界の子供たちです。この戦闘に勝たなければ、未来も、私たちの住める世界も、安全な場所もなくなってしまうでしょう。
1945年7月16日にニューメキシコの美しい砂漠地帯で始められ、現在も進行中の核戦争は、私の母と父と末の妹の命を奪いました。この戦争は今もなお日々、犠牲者を生みつづけています。アメリカ先住民の部族のなかには、ウラン鉱山で働く人々がいて、肺から血を流しています。カザフスタンでは、家族を失って悲嘆に暮れる女たちがいます。イラクでは奇形児が生まれ、キエフでは被曝して髪がすっかり抜け� ��しまった子供たちがいます。世界で最高水準の病院でさも、放射線被曝が原因の癌を治療しようとしても、すでに死にかけた患者たちにいっそうの痛みと苦しみを与えることしかできないのです。
私の父は、62歳のときに肺ガンと骨肉腫で死にました。母は、47歳のときに脳腫瘍で亡くなりました。妹は、40歳で直腸ガンで死にました。弟は19歳のときにリンパ腫を患い、ほかにも家族のなかには、膀胱ガン、皮膚ガン、甲状腺の病気にかかった者がいます。父は、私たちの家から120マイル(200キロ弱)のところで原子爆弾が爆発していることを知っていました。しかし、12年間でネバダで1000発近くが爆発し、その死の灰が私たちの屋根や果樹園や野菜畑や外に干した洗濯物に降りかかることになるとは思っていませんでした。死の灰は、家のなかや車のなかや、食べ物にまで入りこんできました。私たちが使う水や、牛が食む牧草や、私たちの飲むしぼりたてのミルクにも入りこみました 。父は、それによって自分自身や妻や末娘が死ぬことになるとは知りませんでした。残された家族がその後ずっと、手術や治療や薬物療法を受け続けることになるとは知りませんでした。それは、戦争を煽る秘密でした。この秘密によって、「冷戦」の火は燃えつづけたのです。これによって、世界大戦終結た後も、軍需品製造で莫大な利益をあげ、富める者は、さらに裕福になったのです。「冷戦」は、実際にはきわめて熱い戦争だったのです。
私の住んでいた町はそれほど大きくなく、約5000人の女性、男性、子供が住んでいました。無防備で、シェルターに囲まれていたわけでもなく、しのびよる破壊的な攻撃に関する警告もされま せんでした。私たちは、道を誤った科学の犠牲者でした。大量殺戮兵器を製造することで生命を救い「安全」を強化できると思い込んでいる狂人たちの犠牲者でした。現代の核の戦場によって被害を受けたり、汚染された犠牲者を追悼する記念碑は一つもありません。何千人もの女性が乳房を失い、何千人もの男性が自律呼吸機能を失い、何百万人もの子供たちが屈託のない幸せな子供時代を奪われたのです。私の子供たちの生まれる前に、祖父母は亡くなってしまいました。子供たちは、自分たちの愛する人や知人が不治の病気にかかったという知らせに慣れてしまいました。子供たちは生き残った犠牲者でもあります。私たちは彼らのことを認め、尊重し、援助する必要があります。彼らに、過去何が起きたのかをよく教えなければな� ��ません。過ぎ去った日々の美しい記憶を分かち合うだけでなく、全人類に大きな影響を及ぼした不幸な歴史的事実も教える必要があるのです。そうしなければ、必ずまた同じことが繰り返されるでしょう。
広島と長崎で起きた恐るべき破壊は、核兵器によって世界の安全が強化されることなどないこと、いかなる国家も核の保有によって安全を保障されることなどないことを、私たちに示し続けています。広島と長崎の生存者、そして核兵器施設や核実験上の風下地域に住む人々が被っている、生涯つきまとう病と早過ぎる死は、私たち人間がどれほど脆い存在であるかを冷厳に示しているのです。
1945年7月16日にニューメキシコの砂漠で始められた核戦争は、今も人々を殺しつづけています。つい数週間前にネバダで行われ� ��未臨界実験は、戦争がまだ終わっていないことを証明しています。私の家の近所で、あるいは他のどの場所でも、1000発近くの核兵器を爆発させる正当な理由は ありません。ここから分かるのはただひとつ、この重大な決定を極秘で下した特定の人々には、他の人々に対する敬意が完全に欠如していたということです。私たちは、多数の幸福のための捨石にされたのです。私たちは、意味もなく殺されかねないのです。日本人だろうとアメリカ人だろうと関係ありません。これは、国境のない戦争です。放射能と死の灰は、いったん放出されたらとどめることはできません。1957年のセラフィールド、1976年のスリーマイル島、1986年のチェルノブイリ、1999年の東海村の事故は、原子力の平和利用でさえ、多くの問題と危険を抱えていることを示しました。
55年間にわたる放射能の攻撃によって、数百万の人々が命を奪われ、健康を損なわれました。ヒロシマは、日本の人々だけでなく、全世界に対する攻撃でした。そうでなければ、今日、私がここに立っているはずがありません。日本、カザフスタン、オーストラリア、マーシャル諸島、そして全世界の兄弟姉妹と同じく、私もまたヒバクシャです。苦しみと恐怖によって結び付けられた私たちが、核兵器のない新しい千年紀への道を照らす光となることこそ、平和を愛する私たちの共通の願いなのです。
参考URL:核実験と風下住民
ネルソン兄弟2001年レポート
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