バージニア植民地は、北アメリカ大陸に設立されたイギリス領植民地である。1607年にバージニア会社によって設立され、1624年に王領植民地となった。そして1776年のアメリカ独立宣言により、アメリカ合衆国最初の13州の1つ、バージニア州となった。
チェサピーク湾に面し、現在のバージニア州・ウェストバージニア州・ケンタッキー州の全域、およびオハイオ州・インディアナ州・イリノイ州・ミシガン州・ウィスコンシン州を領域とした。同じくチェサピーク湾に面する北隣のメリーランド植民地と併せてチェサピーク植民地とも呼ばれる。
目次 - 1 入植初期
- 1.1 失われた植民地
- 1.2 ジェームズタウンへの入植
- 1.3 1609年の改革
- 1.4 困窮からの脱出
- 1.5 1619年の改革
- 2 王領植民地
- 2.1 王領植民地への改変
- 2.2 奴隷制社会の成立
- 2.3 経済の発展
- 2.4 植民地の政治体制
- 2.5 教育
- 3 独立戦争
- 3.1 印紙法
- 3.2 タウンゼンド諸法
- 3.3 第1回大陸会議
- 3.4 独立戦争開戦
- 3.5 第2回大陸会議
- 3.6 グレイトブリッジの戦い
- 3.7 独立宣言
- 4 先住民との関わり
- 4.1 インディアンに対する白人の誤解
- 4.2 第1次アングロ・ポウハタン戦争
- 4.3 ポカホンタスの拉致
- 4.4 ジェームズタウンの虐殺
- 4.5 第2次アングロ・ポウハタン戦争
- 4.6 ベイコンの反乱
- 4.7 フレンチ・インディアン戦争
- 5 外部リンク
- 6 脚注
- 7 参考文献
- 8 関連項目
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[編集] 入植初期
[編集] 失われた植民地
北アメリカ大陸において、イギリスによる本格的な植民が始まったのは、16世紀末である。ウォルター・ローリーにより、1585年と1587年にロアノーク島への植民の試みがなされた。ローリーはアメリカ植民地を建設する計画を宣言し、イングランド国王エリザベス1世から土地を与えられた。彼はその土地を、未婚の女王エリザベス1世にちなんでバージニアと命名した[1]。だがロアノーク島に送り込まれた入植隊はその後、行方不明となった。
1602年、行方不明となった植民者を求めて探検隊が派遣されたが、ただの1人も発見することはできなかった。ローリーの失敗により、イギリス国内には植民事業に対する投資を警戒する風潮が広まった。
- 詳細はロアノーク植民地を参照。
[編集] ジェームズタウンへの入植
1606年、トマス・スミスを中心とするロンドン商人は北アメリカ大陸への植民を目指した。イングランド国王ジェームズ1世は植民事業のための会社設立に勅許状を与え、スミスらは共同出資会社であるロンドン会社を設立した。間もなくロンドン会社はバージニア会社と名を改め、出資者を募った。そして同年12月、最初の植民者105人を北アメリカ大陸に送った。
渡航者104名(1名は死亡した)を乗せたスーザン・コンスタント号など3隻の船は、翌1607年4月26日、ヘンリー岬に到着した。植民者たちは入植に適した土地を求めてジェームズ川をさかのぼり、5月13日、河口から約48キロメートルさかのぼった地点に上陸した。彼らはそこを入植地と定め、国王ジェームズ1世にちなんでジェームズタウンと命名した。ジェームズタウンは北アメリカ大陸におけるイギリス白人の最初の永続的植民地となった。この場所はジェームズ川に突き出る半島となっており、先住民族であるインディアンの襲撃を防ぐには好都合な地形であった。しかしながらこの一帯は、潮水がせまる湿地であり、飲み水にも塩分が含まれ、またマラリアなどの疫病が発生しやすい地形であった。しかも入植者たちは、共同して生活� ��基盤を固める十分な用意ができていなかった。白人たちは同地でインディアンに出くわし、いきなり発砲するという暴力行為で彼らにその存在を知らしめた。
入植からわずか半年あまりで、入植者は飢えとマラリアで半分以下に減少した。1608年には38人にまで減少した[1]。そのような混乱の中にあった入植者を救ったのは、ポウハタン族インディアンであった。ポウハタン族は「すべてを分け合う」というインディアンの理念に基づき、飢えた白人侵略者たちに食料や水を与え、彼らを援助した。
入植者側では、植民請負人のジョン・スミスが入植者に対して、全力で開拓にとりかかるよう説得を試み、入植地の実権を握った。イギリスが期待した黄金は同地にはなかったので、白人入植者たちはインディアンから恵んでもらったトウモロコシなどの穀物を栽培し、食料の確保に努めた。しかし慣れない地でのトウモロコシ栽培はうまくいかず、スミスは周辺を船でうろつき、沿岸のインディアン部族を武力で強迫し、食料を略奪して回った。
[編集] 1609年の改革
1609年、イギリス本国のバージニア会社は会社の運営機構の改革に着手し、新たな勅許状を獲得した。これによって会社の権限が及ぶ地域の境界が広げられたが、より重要なことは、植民地の経営と当地に関する決定権が明確に会社の評議会に附与された点である。また会社は移住者を送る資金を確保するために株式を公開し、大きな富がなくても渡航費を自分で支払って渡航するものには、バージニア会社の株主の地位を与えることにした。その資金がないものは、植民地で7年間働く条件で、会社の年季契約奉公人として渡航することができた。植民地では株主も奉公人もともに労働が要求されるが、奉公人の年季が明ける7年後には、奉公人は自由になり、株主は会社が上げた利益の配当と少なくとも100エーカーの土地の配分を受ける� ��とが約束されていた。これは地主であるインディアンたちの全く与らないことである。
1609年の改革は、短期的に見ると、政治的にも経済的にも、大きな効果を上げなかった。しかしながらこの改革に含まれる年季契約奉公人や土地配分の考えは、その後の植民地の発展に重要な役割を果たした。この年、バージニア会社は新たな植民者の送り出しに努力し、約400人がジェームズタウンに到着した。だが新たな入植者を迎えた現地では、食料が不足し、困窮を極めていた。
[編集] 困窮からの脱出
1610年、バージニア植民地総督に任じられた第3代デラウェア男爵トマス・ウェストは同年夏にジェームズタウンに到着した。デラウェアは戒厳令をもって統治にあたり、入植者を強制的に労働に従事させた。家屋が建てられ、トウモロコシが栽培され、植民地はどうにか存続が可能になった。しかし本国に送られた毛皮や材木では、植民地が投資にこたえて利益を生み出せる見通しはまったく立たなかった。植民開始から10年を経た1616年を迎えても利益の配当はなく、それどころか会社は破産の危機に瀕していた。
そんなバージニア植民地に恩恵をもたらしたのは、タバコの栽培であった。イギリスではエリザベス1世時代にウォルター・ローリーによって、タバコが嗜好品として知られるようになっていた。バージニアではジョン・ロルフがインディアンが植えていたタバコに目をつけ、ロルフはタバコ栽培を唱導した。ただしバージニア土着のタバコは悪臭が強かったので、人々は、西インド諸島で開発された風味ある品種を栽培した。バージニア植民地の生活は、タバコ栽培により大きく改善された。
[編集] 1619年の改革
白人の人口推移 年 | 白人の人口 |
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1607 | 104 |
1618 | 1,000 |
1622 | 1,275 |
1680 | 44,000 |
1700 | 58,000 |
1720 | 88,000 |
1770 | 463,000 |
植民地におけるタバコ栽培と商品化は、1614年にはじめてイギリス本国に4樽のタバコを送ることで結実した[2]。この輸出量は6年後には27トンにまで達する[2]。タバコの輸出で利益がもたらされることがわかると、入植者たちは競ってタバコを栽培するようになった。タバコ栽培の成功は、バージニア会社に植民地経営を見直す機会をもたらした。そして1619年、ジョージ・ヤードリーやエドウィン・サンズらによって、バージニア植民地の大規模な改革が実施された。
土地の共同経営が廃止され、人頭権制による土地の私有を認められた。以前からの住民中、株主の権利を有する自由民には100エーカーの土地が与えられたが、新たに自分の費用で移住する者には、1人につき50エーカーの土地を所有する権利が与えられた[3]。さらに、奉公人を連れてくる者には、奉公人1人につき50エーカーが与えられた[3]。人頭権制により、資金のある者には、奉公人の数に応じて、広い土地が与えられた。会社は、付与した土地から小額ではあるが、免役地代を徴収して利益を得ることができた。人頭権制は、バージニア会社が廃止された後も存続し、大地主のプランテーションを形成する基盤となった。これらの改革により、植民地の基礎は確固としたものになった。
入植住民には、イギリス本国の国民と同等の自由が保障された。そして住民代表による会議を招集し、意見を表明する機会が与えられた。1619年にジェームズタウンで開催された第1回目の議会は、アメリカで最初に開かれた議会として知られている。
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