2012年6月9日土曜日

365日映画:フルメタル・ジャケット


1987年のアメリカ、ハリウッド映画です。
監督、製作、脚本は、スタンリー・キューブリック。

" 巨匠のなかの巨匠と称されるスタンリー・キューブリックの監督作品 "

べトナム戦争の時代のアメリカ合衆国海兵隊新兵訓練基地。
これからベトナムへ旅立つため、8週間の地獄の特訓を受ける新兵たちが入隊してきます。
彼らはすぐに頭を丸刈りされ、整列させられて、
鬼のような訓練教官ハートマンからウジ虫呼ばわりされ、厳しい訓示を受けます。

「黒豚、ユダ豚、イタ豚を、俺は見下したりしない。すべて平等に価値がない!」
「おまえの顔を見たら嫌になる! 現代美術の醜さだ!」
「両生動物のクソをかき集めた値打ちしかない」
「地球上で最下等の生命体」
という、これよりも口汚い言葉を一定のリズムで奏で、並べ、罵ります。
ハートマン教官の言葉には、
" see "" shit "" asshole "などを引っかけ、
英語の発音的な観点からも非常にリズミカルに口汚く、怖いです。

新兵たちは口答えは許されず、喋っていい言葉は、「サー、イエッサー」のみ。
訓練教官ハートマンは、苛酷で厳しい訓練を新兵たちに課し、容赦なく彼らをシゴきます。

そして、なにをやらせてもノロマで不器用なデブのパイルはいじめの対象とされ、
パイルのミスのとばっちりは他の訓練兵に及び、仲間からもささやかなリンチにあいます。
そんなパイルを主人公はかばいますが、パイルは徐々に精神に異常を芽生えさせ、
感情の無い人間に変質し、目つきも変わります。最後には機械のような優秀な狙撃手になります。

2012年6月5日火曜日

Notebook: ウィスコンシン州 - Wikipedia



ウィスコンシン州
State of Wisconsin
州の愛称: アメリカアナグマ州
The Badger State, 酪農の国Dairy Country

ウィスコンシン州 (Wisconsin WI) は、アメリカ合衆国の中西部に位置する州である。

州の名前は、インディアン部族オジブワ族の言葉で「赤い石の地」を意味する「Miskwasiniing」がフランス語風になまった言葉が元になっているとされる(「湖水河川の集合」や「巨大な岩」を意味するという説もある)。

愛称はDairy Country(酪農の国)またはThe Badger State(あなぐま州)。アメリカアナグマ(バジャー)は州のシンボルでもあり、19世紀前半、ウィスコンシン州が国内の鉛の半分以上をで産出した鉛ラッシュ時代に、鉛鉱山で働く鉱夫とその家族が地上に住居が完成するまで坑道に住んだことから「アナグマ」と呼ばれたことが元になっている[1]

主要記事:ウィスコンシン州の歴史

1634年、フランス人のジャン・ニコレ(Jean Nicolet)が、現在のウィスコンシンを訪れた最初の白人探検家である。フレンチ・インディアン戦争の後、フランスは同地をイギリスに譲渡(1763年)。その後、独立戦争などを経て、アメリカ合衆国の領土に編入され、1836年にウィスコンシン準州、1848年には30番目の州として承認された。

参照:ウィスコンシン州の郡一覧

州の北はスペリオル湖に、東側はミシガン湖越しにミシガン州に、西側はミネソタ州とアイオワ州に、南側はイリノイ州に接している。

四季折々の表情豊かな自然に恵まれた土地で、アメリカ国内では人気のある観光地にもなっている。アメリカ国内ではビールやチーズの名産地としても知られている。ドイツ系、北欧系住民が多く、地ビールやブラッツ(ブラットワースト)と呼ばれるソーセージが名産。ドイツ人気質は日本人と似ており親日的である。夏は過ごしやすい日が多いが、寒暖の差が激しく、米国内ではミネソタと並び寒い州として有名である。冬は1月が最も寒く夜間は-20℃以下となることが普通であり、-40℃以下となることもある。

マディソン市は湖の間にある美しい街としてアメリカ国内では有名であり、極めて優れた都市計画のもとに作られている。カリフォルニア大学の本校のあるバークリーと比較してリトル・バークリーとも呼ばれる大学町である。ウィスコンシン大学マディソン校は生物化学などが有名であり、大学院ランキングブックで社会学部門1位など州立大学としては国内トップクラス。

[編集] 人口動勢

人口推移
人口 変動率
1820年 1,444
1830年 3,635 151.7%
1840年 30,945 751.3%
1850年 305,391 886.9%
1860年 775,881 154.1%
1870年 1,054,670 35.9%
1880年 1,315,497 24.7%
1890年 1,693,330 28.7%
1900年 2,069,042 22.2%
1910年 2,333,860 12.8%
1920年 2,632,067 12.8%
1930年 2,939,006 11.7%
1940年 3,137,587 6.8%
1950年 3,434,575 9.5%
1960年 3,951,777 15.1%
1970年 4,417,731 11.8%
1980年 4,705,767 6.5%
1990年 4,891,769 4.0%
2000年 5,363,675 9.6%
2010年 5,686,986 6.0%

アメリカ合衆国統計局によると、2006年現在、ウィスコンシン州は前年より28,862人、または0.5%増加し、2000年より192,791人、3.6%増加した、人口5,556,506人と概算される。これは144,051人(出生434,966人、死亡290,915人)と前回の国勢調査からの自然増並びに州内への移住者65,781人が含まれている。アメリカ合衆国外からの移住は56,557人増加することとなり、合衆国内部の移住者は9,224人増加することになる。ウィスコンシン州の人口重心はマーケサン市のある、グリーンレイク郡となっている[1]。

2004年現在、この州内に229,800人(州人口の4.2%)の外国生まれ住民がおり、外国生まれの18%と計算する、この州内に41,000人の不法在留外国人が暮らしている。

[編集] 人種及び祖先

この州の人種的な構成は:

  • 87.3% 白人
  • 5.7% 黒人
  • 3.6% ヒスパニック
  • 1.7% アジア人
  • 0.9% インディアン
  • 1.2% 混血

ウィスコンシン州内で5つの最大な祖先グループは:ドイツ系 (42.6%)、アイルランド系 (10.9%)、ポーランド系 (9.3%)、ノルウェー系 (8.5%)、イギリス系 (6.5%)。


大恐慌の芸術

最新の国勢調査では、この州の白人人口の約半分が、少なくとも一部にドイツ系の血を引くと報告されている。ドイツ系アメリカ人はこの州内で最大の民族グループであり、ウィスコンシン州は合衆国内で最もドイツ系 ("German-American") な州であると広く見なされている(しかし43.9%のドイツ系祖先がいる、ノースダコタ州も、これを主張できる)。減少しているスカンジナビア系の人々、特にノルウェー系はこの州のいくつかの西部地域に多く集中している。

2012年6月3日日曜日

おもしろニュースから?なニュース


エイリアンの髑髏 ブルガリア

【An Unidentified Skull】2001年5月、ブルガリアはロドピ山近くにて奇妙な髑髏が発見された。
大きさは赤ちゃんの手ほど、重さはおよそ250g。

髑髏の側で円形の金属質の物質が同時に発見されたが、その金属は地球上では決して合成できるようなものではなかったと言う。
発見後、何人かの科学者がその髑髏を検証してみたが、結局その髑髏がなんなのかを特定する事は出来なかった。
しかしブルガリアの科学者から聞いた見解から少なくとも4つの事が言える。

2012年6月2日土曜日

バージニア植民地 - Wikipedia


バージニア植民地は、北アメリカ大陸に設立されたイギリス領植民地である。1607年にバージニア会社によって設立され、1624年に王領植民地となった。そして1776年のアメリカ独立宣言により、アメリカ合衆国最初の13州の1つ、バージニア州となった。

チェサピーク湾に面し、現在のバージニア州・ウェストバージニア州・ケンタッキー州の全域、およびオハイオ州・インディアナ州・イリノイ州・ミシガン州・ウィスコンシン州を領域とした。同じくチェサピーク湾に面する北隣のメリーランド植民地と併せてチェサピーク植民地とも呼ばれる。

目次

  • 1 入植初期
    • 1.1 失われた植民地
    • 1.2 ジェームズタウンへの入植
    • 1.3 1609年の改革
    • 1.4 困窮からの脱出
    • 1.5 1619年の改革
  • 2 王領植民地
    • 2.1 王領植民地への改変
    • 2.2 奴隷制社会の成立
    • 2.3 経済の発展
    • 2.4 植民地の政治体制
    • 2.5 教育
  • 3 独立戦争
    • 3.1 印紙法
    • 3.2 タウンゼンド諸法
    • 3.3 第1回大陸会議
    • 3.4 独立戦争開戦
    • 3.5 第2回大陸会議
    • 3.6 グレイトブリッジの戦い
    • 3.7 独立宣言
  • 4 先住民との関わり
    • 4.1 インディアンに対する白人の誤解
    • 4.2 第1次アングロ・ポウハタン戦争
    • 4.3 ポカホンタスの拉致
    • 4.4 ジェームズタウンの虐殺
    • 4.5 第2次アングロ・ポウハタン戦争
    • 4.6 ベイコンの反乱
    • 4.7 フレンチ・インディアン戦争
  • 5 外部リンク
  • 6 脚注
  • 7 参考文献
  • 8 関連項目

[編集] 入植初期

[編集] 失われた植民地

北アメリカ大陸において、イギリスによる本格的な植民が始まったのは、16世紀末である。ウォルター・ローリーにより、1585年と1587年にロアノーク島への植民の試みがなされた。ローリーはアメリカ植民地を建設する計画を宣言し、イングランド国王エリザベス1世から土地を与えられた。彼はその土地を、未婚の女王エリザベス1世にちなんでバージニアと命名した[1]。だがロアノーク島に送り込まれた入植隊はその後、行方不明となった。

1602年、行方不明となった植民者を求めて探検隊が派遣されたが、ただの1人も発見することはできなかった。ローリーの失敗により、イギリス国内には植民事業に対する投資を警戒する風潮が広まった。

詳細はロアノーク植民地を参照。

[編集] ジェームズタウンへの入植

ジェームズタウンのスケッチ(1608年)

1606年、トマス・スミスを中心とするロンドン商人は北アメリカ大陸への植民を目指した。イングランド国王ジェームズ1世は植民事業のための会社設立に勅許状を与え、スミスらは共同出資会社であるロンドン会社を設立した。間もなくロンドン会社はバージニア会社と名を改め、出資者を募った。そして同年12月、最初の植民者105人を北アメリカ大陸に送った。

渡航者104名(1名は死亡した)を乗せたスーザン・コンスタント号など3隻の船は、翌1607年4月26日、ヘンリー岬に到着した。植民者たちは入植に適した土地を求めてジェームズ川をさかのぼり、5月13日、河口から約48キロメートルさかのぼった地点に上陸した。彼らはそこを入植地と定め、国王ジェームズ1世にちなんでジェームズタウンと命名した。ジェームズタウンは北アメリカ大陸におけるイギリス白人の最初の永続的植民地となった。この場所はジェームズ川に突き出る半島となっており、先住民族であるインディアンの襲撃を防ぐには好都合な地形であった。しかしながらこの一帯は、潮水がせまる湿地であり、飲み水にも塩分が含まれ、またマラリアなどの疫病が発生しやすい地形であった。しかも入植者たちは、共同して生活� ��基盤を固める十分な用意ができていなかった。白人たちは同地でインディアンに出くわし、いきなり発砲するという暴力行為で彼らにその存在を知らしめた。

入植からわずか半年あまりで、入植者は飢えとマラリアで半分以下に減少した。1608年には38人にまで減少した[1]。そのような混乱の中にあった入植者を救ったのは、ポウハタン族インディアンであった。ポウハタン族は「すべてを分け合う」というインディアンの理念に基づき、飢えた白人侵略者たちに食料や水を与え、彼らを援助した。

入植者側では、植民請負人のジョン・スミスが入植者に対して、全力で開拓にとりかかるよう説得を試み、入植地の実権を握った。イギリスが期待した黄金は同地にはなかったので、白人入植者たちはインディアンから恵んでもらったトウモロコシなどの穀物を栽培し、食料の確保に努めた。しかし慣れない地でのトウモロコシ栽培はうまくいかず、スミスは周辺を船でうろつき、沿岸のインディアン部族を武力で強迫し、食料を略奪して回った。

[編集] 1609年の改革

1609年、イギリス本国のバージニア会社は会社の運営機構の改革に着手し、新たな勅許状を獲得した。これによって会社の権限が及ぶ地域の境界が広げられたが、より重要なことは、植民地の経営と当地に関する決定権が明確に会社の評議会に附与された点である。また会社は移住者を送る資金を確保するために株式を公開し、大きな富がなくても渡航費を自分で支払って渡航するものには、バージニア会社の株主の地位を与えることにした。その資金がないものは、植民地で7年間働く条件で、会社の年季契約奉公人として渡航することができた。植民地では株主も奉公人もともに労働が要求されるが、奉公人の年季が明ける7年後には、奉公人は自由になり、株主は会社が上げた利益の配当と少なくとも100エーカーの土地の配分を受ける� ��とが約束されていた。これは地主であるインディアンたちの全く与らないことである。

1609年の改革は、短期的に見ると、政治的にも経済的にも、大きな効果を上げなかった。しかしながらこの改革に含まれる年季契約奉公人や土地配分の考えは、その後の植民地の発展に重要な役割を果たした。この年、バージニア会社は新たな植民者の送り出しに努力し、約400人がジェームズタウンに到着した。だが新たな入植者を迎えた現地では、食料が不足し、困窮を極めていた。

[編集] 困窮からの脱出

1610年、バージニア植民地総督に任じられた第3代デラウェア男爵トマス・ウェストは同年夏にジェームズタウンに到着した。デラウェアは戒厳令をもって統治にあたり、入植者を強制的に労働に従事させた。家屋が建てられ、トウモロコシが栽培され、植民地はどうにか存続が可能になった。しかし本国に送られた毛皮や材木では、植民地が投資にこたえて利益を生み出せる見通しはまったく立たなかった。植民開始から10年を経た1616年を迎えても利益の配当はなく、それどころか会社は破産の危機に瀕していた。

そんなバージニア植民地に恩恵をもたらしたのは、タバコの栽培であった。イギリスではエリザベス1世時代にウォルター・ローリーによって、タバコが嗜好品として知られるようになっていた。バージニアではジョン・ロルフがインディアンが植えていたタバコに目をつけ、ロルフはタバコ栽培を唱導した。ただしバージニア土着のタバコは悪臭が強かったので、人々は、西インド諸島で開発された風味ある品種を栽培した。バージニア植民地の生活は、タバコ栽培により大きく改善された。

[編集] 1619年の改革

白人の人口推移
白人の人口
1607 104
1618 1,000
1622 1,275
1680 44,000
1700 58,000
1720 88,000
1770 463,000

植民地におけるタバコ栽培と商品化は、1614年にはじめてイギリス本国に4樽のタバコを送ることで結実した[2]。この輸出量は6年後には27トンにまで達する[2]。タバコの輸出で利益がもたらされることがわかると、入植者たちは競ってタバコを栽培するようになった。タバコ栽培の成功は、バージニア会社に植民地経営を見直す機会をもたらした。そして1619年、ジョージ・ヤードリーやエドウィン・サンズらによって、バージニア植民地の大規模な改革が実施された。

土地の共同経営が廃止され、人頭権制による土地の私有を認められた。以前からの住民中、株主の権利を有する自由民には100エーカーの土地が与えられたが、新たに自分の費用で移住する者には、1人につき50エーカーの土地を所有する権利が与えられた[3]。さらに、奉公人を連れてくる者には、奉公人1人につき50エーカーが与えられた[3]。人頭権制により、資金のある者には、奉公人の数に応じて、広い土地が与えられた。会社は、付与した土地から小額ではあるが、免役地代を徴収して利益を得ることができた。人頭権制は、バージニア会社が廃止された後も存続し、大地主のプランテーションを形成する基盤となった。これらの改革により、植民地の基礎は確固としたものになった。

入植住民には、イギリス本国の国民と同等の自由が保障された。そして住民代表による会議を招集し、意見を表明する機会が与えられた。1619年にジェームズタウンで開催された第1回目の議会は、アメリカで最初に開かれた議会として知られている。

2012年5月31日木曜日

グレート・フォールズ In Maryland


グレート・フォールズ in Maryland 

グレート・フォールズ

Great Falls in Maryland

 

 2005年4月24日に、ヴァージニア州とメリーランド州の境を流れる、ポトマック川の渓流を眺める、グレート・フォールズに行ってきました。

 

グレート・フォールズは、チェサピーク&オハイオ運河国立史跡公園の一部です。メリーランド州のカンバーランドからDCのジョージタウン港まで、184.5マイル(約297Km)をつないでいた、チェサピーク&オハイオ運河では、1828年から1924年まで、ラバが牽く船で、石炭輸送が行われていました。1971年より国立公園局の管理のもと、遊歩道やハイキング・トレイルなどが整備されたとのこと。

 

2012年5月18日金曜日

Blocked Content


いくつかの異常が検出されたため、恐らく弊社のウェブページにアクセスするための自動プログラムが使われていると思われます。

申し訳ございませんが、このウェブサイトへのアクセスを拒否されています。

2012年5月16日水曜日

備中高梁観光案内所−【高梁・倉敷・蒜山など岡山全域の観光スポットを紹介】


わたくしたちは、美しい山々と清流にはぐくまれた高梁市を愛し、豊かな伝統文化を受けつぎ、平和で明るいまちづくりを進めるために

●た 互いに助けあって、豊かなまちをつくりましょう
●か 輝かしい未来を築く青少年を育てましょう
●は 働くよろこびを感じ、健康と安全を大切にしましょう
●し 親切と感謝の心で、おとしよりに尽くしましょう
●し 自然を守り、伝統文化を高めましょう